――その問いを、彼は一笑して言い切った。

 

んなもんはどうでもいいと、断言する。

彼だって昔は異常に気にしていたそれら。

他人からの評価、感情、愛情、友情、その他もろもろ。

自分を肯定、或いは否定してくれる。自分の存在を確定させてくれるそれら。

結局のところ、気にしないのが一番だって気付いたんだと言う。

 

――世界は、勝手に動く鏡の向こう側だと――

 

鏡の中の自分は、本当の自分とは似て非なるもの。

似て非なる自分は、やはり似て非なる一緒の人物と一緒にいる。

観測者が見る角度によって、鏡の中は変わるんだと。

 

俺の鏡には、お前がしょっちゅう映るけれど。

例えば、十三の鏡に俺が映ることはあんまりない。

 

数えきれない世界が、あるのだから。

自分が観ている世界ぐらい、好き勝手にすればいい。

俺の鏡は割れるかもしれないけれど、別に大した問題じゃない。

たとえ割れたとしても、他の鏡にはまだ俺が映っている。

 

つまるところ、多世界の肯定。

俺の世界とお前の世界は違うと言い切る。

 

だからと、彼はそう言って――

 

「だから俺は……。

そうだな、いつかは言わないと駄目だって、分かってた」

 

その言葉に、世界が揺れる。

ザーザーと流れる音。周波数がまるで噛み合わない。

 

狂乱して叫ぶ言葉。自分のものとは思えない。

まるで獣だと我ながら思う。もっと優しくしてと、叫んで喚く。

いつか言わるかもしれないと思っていたし、忠告もされていた。

有り得ないと楽観しても、棘はいまだに刺さっている。

 

その言葉を、聞いてはいけない。

 

狂いながら耳を覆い、彼から逃げるように遠ざかる。

逃れられない。震えた身体では、水中を上手く移動できない。

力が入らない両手を抑えつけられた。

 

ああ、ああ、もう間に合わない。

彼は獣を縛り付けて――

 

「俺はお前のことが――」

 

その瞬間、里居美恵の鏡は罅割れた。

 

 

 

――2008820日――

 

 

 

そろそろ午後十一時を回った頃か――

つくづく、自分の間抜けさ加減に嫌気がさした。

なに考えてんだよ、本当に。

 

「つか、どうすんだよ」

 

夏休みも半分を過ぎ、登校日に顔を出した午前中。

適当に春ポンで遊ぼうかと思えば、今日は来てないと十三命。

 

“先輩、随分と嫌われましたね。まあ安心して下さいよ。

先輩を嫌っているランキング一位はわたしが堅持しますから”

 

とりあえず、十三がいつも持っているガムを残らずゴミ箱へ入れてやった。

ともかく、休むなんて珍しいなと思いつつも帰宅したのが正午ごろ。

適当に某大型掲示板で時間を潰し、録画していたJリーグを見終わったのが午後七時。

喜美恵さんとの晩飯時、ニュース番組で交通事故があったと流れたのが七時半。

午前七時前後、居眠り運転のトラックが歩行客数人を巻きこんだらしい。

重傷を負って病院に運ばれたらしい人物の名前は流れておらず。

その時刻、発生現場――嫌な感じがしつつ、しかし有り得ないと思い込んで風呂に入ったのが午後九時。

 

現実から半ば逃げるように布団に入ったのが九時半ごろで――

 

結局、ニュースキャスターの発言が耳に残り、寝られない。

鬱陶しい、安眠妨害するな、ウザイから文句言ってくると家を飛び出たのが十時すぎ。

 

――住所は知っているが、それだけで場所が分かれば苦労しない。

携帯の地図機能を頼りながら、電車と徒歩でなんとか到着したのが数分前。

 

「明かりはついてる」

一軒家の二階の部屋から明りが漏れている。

春ポンの部屋かは分からない。

――というわけで、冒頭に戻る。

 

「インターホン押すか?」

 

押した所で、何て言えばいい?

家族が出てきたら? 夜遅くに来た理由は?

どうする? というか、本当に何で来たんだよ、俺は。

FMしながら、裏で動画サイトを見ながらJFLのいい選手を見つける作業でもしてれば良かった。

徹夜すれば、朝方には重傷者全員の名前も出されただろうに。

 

 

 

(1) サッカーの話題をしに来た。

 

「よう春ポン、北京五輪で俺らは三連勝するつもり(キリッ

とか抜かした奴の功罪について語ろうぜ」

 

いや、あの時はホントすんませんでした。

 

(2) 野球の話をする。

 

「よう春ポン、中日選手の使われ方が酷い件について語ろうぜ」

 

……やめとこう。俺の心がしんどい。

 

(3) お土産でも渡す。

 

「よう春ポン、登校日のお土産だ。このチラシやるよ」

 

……ないな。

  

(4) 心配だったんで来た……は、なんか嫌だ。

 

(5) 安眠妨害だったんで来た。

 

とまあ案は色々とありながら、回答としては馬鹿らしいものになるわけで。

家の前まで来たけど、引き返そうと思ってるんだ、この間抜けは。

 

とりあえず、杞憂だったようでなにより。

登校日をサボった理由は分からんが、どうせ夏休みボケとかだろう。

そう結論付けて、踵を返した時だった。

 

「――帰る?」

 

背後からの声。

熱帯夜にも関わらず、それは冷たいまま、俺の背筋を凍らせる。

 

「どんだけ暇人なんだよ、お前……。

ああ、今から帰るとこだよ。文句あるか、この変態」

 

来た道を戻り、電車に揺られて、駅に到着。

改札を出て、数歩――無言で後ろを歩いていた里居がポツリ。

 

「――もし、アタシが学校を休んだ時、蘭は家まで来てくれる?」

 

……多分、行かない。

 

「――ごめん、来てくれるよね。でも不安になったから」

 

いや、絶対に行かないから。何だよ、その飛んで火に入るなんとやらは。

お前が学校を休んだ時は平和を満喫するから。

 

しかし、意外と言えば意外だった。だってこいつが――

 

「お前が不安になるとか、珍しいな」

 

活躍するムンタリ、的中するオレ竜投手交代、不安になる里居美恵。

どれも年に一回あるかないかだろう……いや、すんません、ムンタリさん。

貴方の年一はWCで使い切ったの分かりましたから。

 

「――ついでに言えば、オフサイドにならないインザーギ」

 

ふざけんな。何だよ、あの補正。絶対にオフサイドだからな!

最高のベンゼマさんがいなかったらどうなってたか……

 

「ともかく、なんつーか……」

 

そこまで口にしながら、俺は閉口した。

こいつに対して、元気出せなんて気軽に言えない。

だって俺、意図的にこいつを避けてたから。

 

「――――――」

 

そんな心中を察しているのかいないのか、こいつはさらに押し黙る。

沈黙は重く、周りに人はおらず、足音だけがやけに響く。

 

「――――――」

「…………」

 

時間にして十秒ちょっとだろうか、続く沈黙に堪え切れず、髪を掻き毟った。

 

「ちょっと、遠回りするぞ」

 

無言でついて来る里居。

さて、駅から遠回りをして、何処へ向かおうか。

って、そういや、こいつと顔を合わせたのはピクニックに行ったとき以来か。

健太や斎藤となら毎日のように馬鹿やってるけどな。

 

「――蘭がアタシを避けている理由、何となく分かってる」

 

そして、里居は呟きはじめる。

 

「――でも嫌だ、苦しいよ、こんなのが続けばアタシはきっと耐えられない」

 

独白は続く。

 

「――例えば夏休み。去年は海に行った、一昨年も。今年はプールすら行ってない」

 

別にいいだろうが、それくらい。

 

「――例えば昼間。バカ二人と遊んでいる時、窓に張り付いているアタシを無視してた」

 

そりゃあ無視するだろ、お前なんか蝉と一緒だ。

 

「――端的に言えば、構ってよ」

 

避けている理由は!?

こいつ、真正の馬鹿なんじゃないだろうか。

 

俺はそう思うわけだが、まあ乗りかかったなんとやら。

たとえ変態でも、女が泣きそうなんだ。

何とかするのが男ってもんだろう。それにムカツクけど――

 

「少し安心した。考えてることは一緒みたいだな。

正直、この夏は俺としても刺激が足りなかったと思う」

 

春ポンの事で寝付けなかったのも、それが原因なのかもしれない。

友人が怪我をする――“そんな刺激を求めていた”んだろう。

我ながら馬鹿らしい。なんて、程度の低い欲求不満なんだよ。

 

駅から遠回りをして、向かった先は学校。

 

「よっと」

 

フェンスをよじ登り、プールにある日除けへと飛び移る。

里居も、無言で俺についてきている。

だから、腕を掴むと泣きそうな顔を見て笑ってやった。

そして足下にあるプールを顎でしゃくって――

 

「ほら、行くぞ」

 

二人でザバンと飛び込んだ。

周りの誰かに見られているかもしれないが、そんなの気にしない。

こちとら品行方正で売ってるわけじゃない。

紙切れに書かれたチンケな規則に比べたら、こいつの方がなんぼか上だ。

 

これで満足か馬鹿娘と、里居を水中へ沈めてやる。

 

「――まだまだッ!」

 

潜水して回り込んだ里居が背後から、今度は俺を沈めてくる。

 

「このッ! 生意気なんだよ、ザク美のくせに!」

「――それは禁句!」

 

二人仲良く水を掛け合う――なんて、リア充爆死しろと言いたくなるそれとは程遠い。

拳を振り上げ、なんとなれば足も使って――普通に喧嘩している。

罵倒しあって、ハズい事も言い合って、それでも伝わらないのがもどかしいくて。

何をすれば良いのか、何て言えば良いのか分からず。

泳ぎ、潜り、沈めて沈められながら、割と本気で殴り合う。

 

「――こんのォッ!」

「てめ、アホの癖に調子こくんじゃねぇ!」

 

実際、里居と本気で喧嘩できる人物なんて俺くらいだろう。

というか、俺でも無理だ。何だよ、この化け物。

 

「――いちいち避けるんじゃない!」

「無茶言うな、おま、衝撃波とかふざけんなよ!」

 

逃げて逃げて、時々攻撃。

罵って挑発して、躱した後で攻撃。

 

「ハッ、流石のお前も少しは疲れてきたか?」

 

それを三十分ほど繰り返し、暴風が止んだ瞬間。

逃げられないよう、里居の襟元を掴み――ぶん殴る。

 

「――――ッ!」

 

回避しようとした里居に、モロに入り、苦痛に顔を歪める。

だがしかし、俺はこの程度で止めるようなお人好しじゃない。

 

「今まで散々されてきたセクハラの分――ボッコボコにしてやんよ!」

「――どっちが!」

 

右ストレートにクロスカウンターで応じる。

ダメージがデカいのは俺の方だが、根性がある、問題ない。

 

泳ぎ、潜り、殴り殴られながら、本気で相手を潰し合う。

というか、叩き潰さないと気が済まない。

 

不安? アホ言うな、欲求不満だろ。

いつもみたいに強引にやれば良いんだよ。良かったんだよ。

何を今更気付いてるんだ、このバカは。

俺もお前も、そんな事に気付かず、何をやってたんだろうな――

 

 

 

そんな事を思い、そして戦闘開始から一時間ほどが過ぎて。

 

「お前、少し弱くなったよな?」

「――というか、蘭が強くなりすぎ」

 

疲れ果てて、プールに浮かんで会話する。

そんな、中々に風情があるこの一時。

 

「俺は頭脳明晰ですから。お前みたいな馬鹿とは、やるほどにやりやすくなる」

「――それって、なんか狡い」

 

そうか? なんて、答えながら夜空を見上げる。

きっと、里居も夜空を見ているんだろう。

 

「なあ、夏の大三角形って知ってるか?」

「――知らない」

 

プカプカ浮かび、コツンと頭を合わせ、指差して説明する。

 

「あの明るいのがそうだよ。

下から見て……って、お前からみたら上から見て、こう、三角になってるのが分かるか?」

「――蘭が本田△って言わせたいのは分かった」

 

いや、そんなつもりはないから。

 

「――冗談、見えるよ」

「頂点がベガ、左がデネブ、右がアルタイル」

「――位置関係が分かり難い、サッカーで例えて」

VVVの中盤で言えば、ベガが本田、デネブがアウアサル、アルタイルがレーマンスだ」

「――分かった」

 

分かんのかよ。だいぶ昔だぞ。

……いや、そうだ、これから08-09シーズンだ、何を言ってんだろう俺は。

 

「デネブってさ、メチャクチャ明るいんだよ」

「――アウアサルが?」

「いや、アウアサルじゃなくて、星の話だ」

 

フェイエノールトの話はしてやるな。

今シーズンは無理だ、ありゃあ。

 

「太陽の5000倍以上だってよ」

 

6000倍とか、いや数万倍だとか言われてるけど。

ともかく桁外れに明るい星。

 

8200だか300年後にはアレが北極星になるんだって話だ」

 

そこまでいくと、理解の範疇を超えている。

 

「――それで?」

「いや、なんつーか……そんな星が、だ」

 

そんな出鱈目な光を放つ、超巨星が――

 

「数千万年後にはブラックホールやら中性子星やらに進化するんだとさ」

 

いつかは、全てを引き寄せる超重力の星になる。

そんなことを考えていると無性に――

 

「なんか……本当に何だろうなってなるよな?」

「――うん」

 

中二病と言われようが考えてしまう。

人生の儚さとか、矮小さ。

 

「だから、俺は好きなように生きる」

 

天才、悪魔、天使、怪物――なんと言われようが俺はこんなに小さくて。

ゆえに、俺が何をしても世界は変わらず回り続ける。

だったら、せめて――自分の全てを出してやろうと強く思う。

 

俺はこんなにもちっぽけで。

俺が何をしても“世界”は動かなくて。

“鏡の前にいる俺”は、どうやっても動けなくて。

 

だから、諦めて好きなようにする? いいや違う。

俺は絶対に諦めたりしない。この世界を動かしたい。

“鏡の間”を、自由に動いて眺めたい。

 

「そうすれば、皆から愛されると思ってるんだ」

 

常識とか、力とか、普通に生きてて感じる様々な壁をぶち壊し、楽しい事をするピエロ。

皆が思っていて、それでも形に出来ないモノを、形にしてやりたくて。

皆から好かれたくて、愛されたくて。

 

「まあ例外はあるけど」

 

十三命とか、十三命とか、十三命とか。

アイツは駄目だ。俺とはノリが合わない。

それはきっと、同族嫌悪だろう。きっとあいつも――

 

「そういう意味で、お前だけを特別扱いには出来んわけ」

 

そりゃあ、親しくするさ。

春ポンとだって成元とだってお前とだって親しくするさ。

だけど、だからって他の奴らよりも大事だとかは思わない――今は。

それが、こいつを避けていた一番の理由で。

それはつまり、俺がこいつの事を――

 

「と、まあ色々と言ったが。

俺が言いたいのは、下手に抱え込むなって事だ」

 

やりたいことあるなら、やりゃあいいんだよ。

お前にはそんだけの力があんだろうが。

 

「――そうだね」

 

耳元で漏れた言葉に、恐らく嘘は無い。

良く出来ました、ご褒美だと呟いて――

 

「――――――」

「――――――」

 

数秒、目を合わせたまま沈黙して。

 

「――初めて?」

「ああ、そうだ。悪いかよ、言わせんな恥ずかしい」

「――私も、初めて」

「……知るか」

 

そのまま、どちらともなくプールから出る。

服が水を吸って気持ち悪いし、体もボロボロ。

痛みを堪えながらフェンスを越えて、道路へ。

調子に乗って二回目をせがむ里居を引き剥がしながら、俺達は帰路へ着いた。

日付はすっかり変わっていて、びしょ濡れの携帯と財布は使い物にならなくなって。

 

しかし、それだけの価値はあったと思う、ファーストなんちゃらだった。

 

 

 

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