――2008年7月18日――
終業式を無事に終え、クラスのHRから解放されてから数分後。
生徒会室で本を読んでいた俺の耳に、すんませんと扉の向こうから呼びかける声が届いた。
「春ちゃんいますか?」
「ん? 春ちゃんって夏川? 俺もそいつ待ってるんだけど、まだ来てないよ」
「そうですか……」
困った、と項垂れているのはどこかで見たことのある少女。
たしか、少し変わった名前の……
「あー、ごめん。名前なんだっけ?
夏川の友達だよな? 顔は見たことあんだけど……」
「十三命ですよ、先輩の名前は?」
「俺? 俺は――――」
……と、視線を本に戻して答える。
「氷上英廣」
「すいません、聞いてみただけでした。
わたしも先輩の名前くらい知ってるんでボケなくてもいいですよ」
「――――――」
じゃあ聞くなよ、自分の名前を言うのって恥ずかしいんだぞ。
「まー、夏川ならもうすぐここに来ると思う。
ちょっとそこら辺に座って待ってろよ」
「あ、じゃあ失礼します」
言って、十三命は椅子に座って俺を見る。
「…………」
俺を見る。
「――――――」
本を見る。
「…………」
俺を見る。
「――――――」
本を見る。
「…………」
俺を見る。
「――――――」
本を――
「って、なんか喋って下さいよ!」
「うわ! びっくらこいたー」
勢いよく立つな、麦茶がこぼれる。
ぷんすかぴー、怒って注意して視線を本へ戻そうとして――
「なんかお喋りしましょーよー、寂しいすよー」
「わかったから暴れるな、麦茶がこぼれる」
お手上げ、降参だ、参ったよ。
視線を十三命へと移して麦茶を一口。
「つっても、なに話すのさ?」
「そいじゃーですねー、UCLの決勝について語りますか?」
「インテルの4-2-3-1とバイエルンの4-2-2-2の噛み合わせ上、インテルが中盤を支配する。
サイドへの展開を制限させて、インテルの攻撃陣がバイエルン守備陣を粉砕して得点。
もしかしたらワンサイドになるかもしんない、予想はインテルが3−1で三冠達成。
モウリーニョは来季レアルに行くことになれば、リーガとコッパの二冠くらいしそう」
「い、一気に饒舌になりましたね……」
「あんまり長々と続けるような話じゃないからな」
「そうですね……それじゃー、春ちゃんについては、どーですか?」
はてなマーク。春ちゃん……夏川春についてどう、とは?
「夏川……春ポンがどうって?」
「いや、わたしですね。けっこう春ちゃんとは仲良いんですけよね。
そいでどーも春ちゃん、先輩が好きみたいなんスよー」
「――――――」
絶句、した。
「あんな、わたし以上に男勝りの春ちゃんを落とすなんて、何したんですか、もー!」
「いや……いやいやいやいやいや……」
そもそも、たとえそうだったとしても――
「春ポンが俺を好き? オーケー、そうかもしんない。
でも正直なところ、だからって何をするわけでもないし……」
何かが変わるわけでもない。
「付き合ったりはしないんですか?
彼女、いないんですよね? たしか」
「しないよ、彼女もいらない、鬱陶しい。でも、愛人ならたくさん欲しい」
「――――最低だ、この人」
うっさい、男なんてそんなもんだ。
「じゃあ愛人はいるんですか?」
「いない。目下、絶賛募集中。お小遣い1万」
「くれるんですか!?」
「いや俺が貰う……当たり前だろ?」
「――――最低だ、この人」
……おい、今年の一年は生意気すぎるだろ。
誰かしっかり教育してやれよ、俺はダルいから嫌だけど。
「というか、そんな売春みたいなこと駄目ですって!」
「えー、じゃあ聞くけど。十三は彼氏がいんの?」
「え!? いや……いないですよ」
「欲しいと思う?」
「んー、分かんないですねー。でも良い人なら欲しいです」
本を閉じて机に置き、俺は訊いた。
良い人って、なんぞやと。
「年収1000万、180cm以上で優しくてイケメンの、同い年かちょっと上の男の人」
「―――――――」
絶句、する。
「できれば車は――」
「って、アホかこのメンヘラ!」
ぎゃわー、と椅子に凭れていた十三命は後ろへ転倒する。
あ、パンツ見えた。
「…………」
「――――――」
ちょっと、赤面。
「なんか、ごめんな」
「いや、わたしが倒れたせいなんで良いすよ」
「お、おう」
「は、はい」
そわそわ。
「――――――」
「…………」
そわそわ。
「ちわー、センパイ……って、何この雰囲気」
「あ、春ポン」
「春ちゃんだー」
微妙な雰囲気が一気に崩れる。
その点だけ、この男勝りな少女に感謝しよう。
と、まあ春ポンに借りていたゲームを返して帰宅する。
途中まで、後輩二人と他愛ない世間話に花を咲かせて……数分後。
「じゃー、藍原先輩さようなりー」
「そんじゃ、またなセンパイ」
「おう、んじゃー」
次に会うのは九月だな。
なんて少し残念に思いながら、少女たちの背中をしばらく見つめて視線を切った、瞬間。
「――ばあ」
「うあぁッッ!?」
ともすれば唇が触れ合いそうな至近距離。
里居美恵がそこにいた。
「――驚いた?」
「おどろいた」
おどろいたから、腰に回してる手を離せよ変態。
リアルに目が怖いから、いやマジに。
「――蘭のこと、好きだってね?」
「正直、眉唾だけどな」
「――で、蘭は好きなの?」
俺を解放し、歩きながら訊いてくる。
「俺が、春ポンを?」
うん、それと……と頷いてさらに付け加える。
「――夏川春、十三命、成元幸代、斉藤佳奈美、宮野結衣、高崎久美、高崎美玖、田崎沙梨、向田喜美恵、斉藤浩司、柳野健太、阿部英一、藍原凛、藍原蓮、藍原蘭、里居江利加……あと、アタシ」
俺が親しい人達、俺の近くにいた人達。彼等に――
「――蘭は、誰が一番好きなの?」
優劣、優先順位、避けれない取捨選択。
そのとき俺は誰を選ぶ? 誰とともに俺は――
「まあ何人か有り得ない奴がいてるけど……」
知るかと、鼻で笑い飛ばす。
避けれない取捨選択、断崖から伸ばした手は誰を掴んでいるのか――
「俺はみんな……みんな大好きだよ、ラブラブだ」
春ポンも十三命も成元も、斉藤兄妹も宮野も人害姉妹も。
田崎先輩も喜美恵さんも、浩司も健太も英一も。
両親だって、江利加だって、俺自身だって……もちろん、隣にいる――
「おまえも大好きだ。いつもセクハラばっかりウザいけど、それでも俺は――」
みんなのことが……おまえのことが……
「――ヤバい」
「ん、どうした?」
珍しく赤面した顔をそらすと俺からはその表情は窺えない。
だけどきっと、喜んでいるんだろう。そうであって欲しい、かくあれかし。
「――今、すっごいムラムラ…いや間違えた、ドキドキしてる」
「…………」
一歩、里居から距離を取る。
「とりあえず鼻血を止めろ、この変態」
笑いながらティッシュを差し出す。
もっと罵ってと悶える変態に気圧されながらも、肩が触れ合いそうなほどの近い距離。
腕を絡めようとする里居に文句一つ、二つ、三つ言って笑い合う。
笑い合った先、家の前で別れて俺は一人になる。
「――――――っは」
家にはまだ誰もいない。
喜美恵さんが帰ってくる前に、晩飯の用意だ。
「うん、今日はカレーにしよう」